速 水 御 舟 略 歴 |
年号 |
西暦 |
年齢 |
事項 |
明治27年 |
1894 |
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8月2日 蒔田良三郎、いとの次男として東京浅草茅町に生まれる。 |
本名栄一。家業は質屋で、後には第百銀行系の実業貯蓄銀行を創立した。 |
明治31年 |
1898 |
3歳 |
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明治34年 |
1901 |
6歳 |
浅草育英小学校入学。明治40年卒業 |
友達に蒔絵師の子供がおり、絵や蒔絵を描いて遊んでいた。 |
明治41年 |
1908 |
13歳 |
実家近くの松本楓湖の安雅堂画塾に入門。先輩に岡村応東、上原古年、高橋広湖、今村紫紅、同輩に小茂田青樹、牛田鶏村らがいる。同塾では、宗元古画や、大和絵粉本などの模写、近郊への写生をおこなった。 |
明治42年 |
1909 |
14歳 |
1月、師より禾湖(かこ)の号を与えられる。 |
明治43年 |
1910 |
15歳 |
初めて展覧会に前年の作品を出品(第10回巽画会、鳥合会) |
明治44年 |
1911 |
16歳 |
第11回巽画会に「室寿(もろほぎ)の讌(えん)」出品、宮内省買い上げ。美術研究精会に「漁村」出品。四等賞状受ける。この頃、牛田鶏村の紹介で今村紫紅に会い、その場で紅児会に入会。 |
17歳 |
小田原の紫紅宅に一ヶ月鶏村と滞在。第16回紅児会に「浦津」第17回紅児会に「雨雲」を出品 |
明治45年 |
1912 |
18歳 |
号を浩然とする。 |
第12回巽画会に「寂」出品。 |
第18回紅児会に「夏野」出品、後消失。 |
第8回文展に「萌芽」出品、落選。 |
大正2年 |
1913 |
19歳 |
第13回巽画会に「萌芽」出品、銅賞1席となる。作品は原三溪の所有となり以後援助を受けるようになる。 |
紅児会静岡会に「暮雪」「夕日」出品。 |
紅児会解散。牛田、小茂田とともに京都南禅寺永観堂畔に移居。 |
大正3年 |
1914 |
20歳 |
母方の速水家を継ぐ。号を御舟と改める。 |
日本美術院再興の報を聞き、帰京。 |
第1回再興日本美術院店に「近村(紙漉き派」を出品,院友に推挙。 |
紫紅を中心に青樹、風堂らと赤曜会を結成。 |
大正4年 |
1915 |
21歳 |
赤曜会員で野外展を催し、目黒派と呼ばれた。第1回赤曜会に「春日清香」「樵夫」「隠岐の海」を出品。 |
第1回日本美術院習作展に「雨後桜」出品。第2回赤曜会に「郊外の春」「新緑」など出品。 |
目黒区三田に転居。 |
第2回院展に「山頭翠明」出品。 |
第3回赤曜会に「宮津」「軍鶏」など出品。 |
大正5年 |
1916 |
22歳 |
紫紅脳溢血のため急逝(35歳)、そのため、赤曜会解散。 |
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第2回院展習作展に「春寒」出品。 |
大正6年 |
1917 |
23歳 |
神奈川県茅ヶ崎海岸に移る。 |
日本美術院第3回試作展に「伊勢物語」出品、試作賞第1席となる。 |
京都東山清水にある、大倉孫兵衛の別邸に移る。 |
第4回院展に「洛外六題」出品。大観らの激賞を受け同人に推挙されるが、関東大震災で消失。 |
大正7年 |
1918 |
24歳 |
京都洛北修学院村林丘寺内雲母庵に移る。 |
第5回院展に「洛北修学院村」を出品。 |
この頃、御舟自身「群青中毒」というように、青を基調とした作品が多い。 |
大正8年 |
1919 |
25歳 |
祖母きく逝去にともない帰京。 |
浅草駒形にて、市電に轢かれ左足切断、入院。 |
療養のため塩原温泉へ行く。 |
京都修学院村に帰る。 |
大正9年 |
1920 |
26歳 |
母いと逝去し、半年ほど帰京。 |
第7回院展に「比叡山」「京の舞妓」を出品するが、極端な細密描写が批判を浴びる。 |
大正10年 |
1921 |
27歳 |
吉田弥一郎四女弥と結婚、目黒の吉田邸内に住む。 |
脚部治療のため再び塩原温泉で療養。 |
第8回院展に「菊花」「渓泉二図」を出品。 |
大正11年 |
1922 |
28歳 |
第9回院展に「広庭立夏」出品。 |
大正12年 |
1923 |
29歳 |
弟子の高橋周桑とともに武蔵野野火止の平林寺に仮寓する。参禅、精神修養をする。 |
師、楓湖逝去。 |
関東大震災。院展不出品。岸田劉生が吉田邸をしばしば訪れ、御舟と芸術談義を交わす。 |
大正13年 |
1924 |
30歳 |
第11回院展に8点を出品 |
大正14年 |
1925 |
31歳 |
一家で軽井沢滞在、この間に「炎舞」「樹木」を描く。 |
大正15年 |
1926 |
32歳 |
吉田幸三郎、青樹、大月ら6人で日光、奥日光へ写生旅行。 |
第13回院展に「樹木」「供身像」「朝鮮牛」の3部作を出品。 |
吉田邸にて初の個展を開催。吉田幸三郎が、画家育成を目的に園丘荘画塾主宰、後に奥村土牛、小倉遊亀も参加。 |
昭和2年 |
1927 |
33歳 |
第14回院展に「京の家・奈良の家」を出品。 |
昭和3年 |
1928 |
34歳 |
第15回院展に「翠苔緑芝」を出品。 |
昭和4年 |
1929 |
35歳 |
第16回院展に「名樹散椿」(重要文化財)を出品 |
昭和5年 |
1930 |
36歳 |
イタリア政府主催ローマ日本美術展覧会の美術施設として、大倉喜七郎、大観夫妻らと渡欧、ジョットやエルグレコに惹かれる。このときイタリア展に「名樹散椿」「鯉魚」を出品、イタリア政府よりオクイシェー・クーロンヌ勲章を受ける。 |
昭和6年 |
1931 |
37歳 |
ベルリンの日本画展に「夜の雪」を出品、ベルリン国立美術館に寄贈する。ドイツ政府より赤十字二等名誉勲章を受ける。 |
東京三越において遊欧小作展開催。 |
第19回院展に夫人をモデルにした「女二題」を出品 |
昭和7年 |
1932 |
38歳 |
第19回院展に「花の傍」出品 |
昭和8年 |
1933 |
39歳 |
朝鮮美術展審査のため、松岡映丘とともに朝鮮に渡り、1ヶ月滞在。 |
第20回院展に朝鮮婦人を取材した「青丘婦女抄」出品 |
昭和9年 |
1934 |
40歳 |
日本美術院第18回試作展に「白日夢」を出品、李王家買上げ。 |
鏑木清方の推薦で、七絃会会員となり、「白鷺紫閃」を出品 |
昭和10年 |
1935 |
満州国皇帝より花瓶1対を下賜。 |
安田靫彦、梅原龍三郎など洋画家、彫刻家からなる清光会会員に推される。 |
腸チフスにより入院。3月20日逝去(享年40歳) |